熊本県卓球協会の主催で城山ひのくにの全国ホープス大会2連覇とヒゴ鏡の準優勝を称える祝勝会が行われた。
当日は、協会関係者、両クラブの父兄など110名ほどの方々にお集まり頂いた。深水会長より記念品の賞状と盾を頂戴した。
東京から熊本に来てちょうど7年。7年前は、先輩の高木さん(タカギ卓球代表)のお世話になり、八代の卓球会館で指導者としてスタートした。まだ熊本弁もうまく聞き取れず、周りの人たちが何を話しているのかわからない状態であった。当然、知人、友人もこの場所にはいない・・・まさに未知の世界に入り込み右も左もわからない状態であった。しかし、こんなよそ者を温かく迎い入れ自分を応援してくれる方々がたくさんいてくれた。この応援してくれる方々の恩に報いるためにも「卓球で恩返しをしよう。低迷している熊本県の卓球を何とか全国のトップレベルにしよう。卓球を通じて熊本県の人たちのために役立つ人間を目指そう。」という志を持った。そして八代で1年半高木さんのお世話になり、その後独立して卓球場を経営していくことになった。いまでは60名近い生徒を預かっているが、設立当初は自分の子供2人(6年と2年)と硴塚(1年)の3人からクラブがスタートした。当時は、指導の知識もなく自分の経験だけが頼りであった。しかし、自分の経験だけでは自分を超える選手は育成できないことがわかっており、指導方法を模索する状態であった。まずは自分の経験を捨て一から学ぶことから初め、自分であれこれ考えることをやめた。九州には全国でトップレベルのチームが数多く存在しており、なぜ強いチーム、選手を育てることができるのか、という事を学んだ。毎週のように試合や遠征をして、強いチームの指導者と積極的に話しをして、その指導者の考え方を引き出し、すべてを受け入れることにした。草の根の指導者はトップレベルでは考えられない指導理念を持っている。トップの世界では受け入れられない考え方もある。しかし、今の日本を支えてきたのはこの草の根の指導者であることには間違いない。その指導者の生き様を見習った。
やがて生徒が増えていくに連れて、問題も多くなってきた。いまの子供たちはいろいろな難題を抱えながら生きていることがわかった。卓球が強い弱い、試合での勝ち負けという問題が、他の問題に比べてたいした問題ではないということがわかった。それからは、卓球を強くさせることだけを考えるのをやめた。大切なことは卓球を強くさせることではなく『心を育てる』ことであると悟った。とは言え、プロの指導者としては結果を出さなければならない厳しい現実があった。周囲は「松下が教えるのだから強くて当たり前」という空気が流れ、結果を出さなければ「なんだ、松下はたいしたことないな」と言われる。自分が言われるのは構わないが「松下の生徒なのに弱いな」などと生徒が見下されるのがとても嫌だった。
独立して「日本一」という目標を掲げたが、本気で日本一を目指そうと思ったのは、当時2年生だった宮﨑が入ってきたからである。クラブ設立当初は、長男の海輝はすでに6年生で日本一を目指せるチーム力がなかった。そして、二男の大星(2年)と硴塚(1年)の2人ともう1人メンバーが揃えば日本一を目指せるのではと考えた。そして、その3人目に相応しい子供が入ってきてくれた。目つき、顔つきがとても良く、負けん気の強い性格がなお良い。3年後に日本一になる計画を立てた。3年後にライバルになるチームはどこで、どのような選手がいるのか調査し、そのチームに勝つレベルまで引き上げることを考えた。そして、予定通りに3年後の大会で初優勝することができた。自分としては偶然ではなく必然的に優勝することができたことが嬉しかった。優勝した瞬間は「予定通りだったな」と至って冷静だった。翌年は2連覇達成。初優勝した時の主力メンバーの2人が残っていたので当然だったかもしれないが、初優勝した大会前にすでに翌年に2連覇することを考えていた。だから翌年3人目のメンバーになる井上(4年)をベンチに入れ、予選リーグで1試合出場させ、優勝した瞬間を経験させていた。この経験が翌年に実を結び、決勝戦という大舞台で臆することなく思い切ったプレーをすることができ優勝に大きく貢献した。
祝勝会の時にも述べたが、2年連続日本で1番最高の瞬間を味わい、日本で1番幸せな監督になれたのも私を信じて、子供を預けてくれた保護者のお陰であることに間違いない。感謝という言葉しか見つからない。自分の子供を他人に預けるという事はできそうでなかなかできない。指導者に対して口を出す親もたくさんいるが、口を出す親の子供は大成しない、ということを諸先輩方から学んでいた。預かった子供たちのためにも口を出させないことをクラブのルールとした。これにより子供たちのこれからの人生は、すべて自分の手腕に懸かっているという重責を自ら担う事になり、結果的にこのルールをつくったことは間違っていなかった。
今後も夢は自分が手ほどきした生徒が世界一になること。「世界一」になる選手を育成する方法を模索し続け、この夢を叶えたい。
過去を振り返ったら、つい長い文章になってしまった。
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